映画の紹介

岡崎まゆみ監督「40年 紅どうだん咲く村で」(102分)

主人公は美浜町新庄在住の松下照幸とその妻ひとみ。映画のイントロダクションは下記URLを参照。

https://benidoudan.themedia.jp/

2011年3月11日以前、福井県若狭湾周辺地域には14基(当時、廃止が決定していた「ふげん」除く)の原発が集中立地していた。10基の原発がある福島県の「浜通り」とともに、若狭湾周辺地域は「原発銀座」と呼ばれていた。

2011年3月11日、東北の太平洋沖で発生したマグニチュード9.0の地震津波によって、福島第一原発事故が発生。放射性物質が広範囲に拡散、不可逆的被害を今ももたらしている。

福島第一原発事故は、もう一つの「原発銀座」にも影響を与えた。

日本海に面した敦賀半島には、福井県敦賀市敦賀原発1、2号機、高速増殖炉もんじゅ、そして美浜町美浜原発1、2、3号機が集中立地する。

松下照幸(1948年生れ)さんが暮らしているのは、美浜町新庄地区。新庄は、美浜町の南にあり、滋賀県境に接する山林地帯である。

松下さんは、美浜1号機が運転を開始する前の少年のころは、原発に賛成していた。町に原発ができると、道路がつくられ、町が発展すると教えられていたからだ。

松下さんは高校を卒業後、当時の日本電信電話公社に就職。福井市内の労組青年部で原発の危険性に関する情報を知り始め、労組内の運動として原発に反対した。しかし、あることをきっかけに原発に関して猛勉強し、確信を持って反対に転じた。

集落のほとんどの家から原発あるいは原発関連事業に働き手を出している中で、地元・美浜町内で「反対」の声を上げることははばかられた。そんなころ、松下さんの母親の、息子を信頼する勇気ある行動を見て、松下さんは考えを変えた。美浜町でもおおっぴらに反対の声を上げることにしたのだ。しかし、それは原発で働く町の人たちから厳しい視線を浴びる、町の嫌われ者になることでもあった・・・。

松下さんは原発にかわる地場産業があれば、原発で働かなくてもよくなるのではないかと地場産業を模索した。新庄地区の旧大日開拓村で「紅どうだんつつじ」という花木と、それを一人で守り続けるおじいさんに出会った。「愛らしい紅どうだんは集落の宝物」だと、おじいさんから花木を受け継ぎ、2002年に運営を始めた「森と暮らすどんぐり倶楽部」の事業の1つとして、守り育てることにした。

そして、2011年3月11日を迎えた。

日本各地が、原発再稼働か、廃炉かで揺れ始めた。

しかし松下さんは、美浜町民は「原発がある不安と、原発が無くなると雇用が失われる不安」に揺れていると感じていた。そして危機感を持ち、動き始めた・・・。

 (引用ここまで)

松下氏は「森と暮らすどんぐり倶楽部」を運営している。

http://www1.kl.mmnet-ai.ne.jp/~donguri-club/

機関誌『森の国から』もこのサイトで読める。

 

ここからは私の要約と感想である。

松下氏は「さよなら原発神戸アクション」で講演。http://sayogenkobe.blog.fc2.com/

松下氏といっしょに美浜原発を見学したドイツからの来訪者ベアルベ・ヘーンという人は、発電所を抱えた自治体の発想はドイツでも日本でも同じだと言っていた。

その後、松下氏は美浜町に対して提案を行なう。この提案、は半田正樹「地域循環型社会として自立する女川」篠原弘典・半田正樹編著『原発のない女川へ――地域循環型の町づくり』社会評論社、2019、で次のように批判されている。「なお、先に紹介した福井県美浜町議の松下照幸の提案、美浜原発で発生した使用済み核燃料だけに限り、放射能のゴミを美浜町で保管することを受容するが、その対価として「使用済み燃料保管特別税(仮)」を徴収する、というのはそのまま素直に認めることはできない性質の問題である。「町の原発で生み出したのだから、その保管・処分も町で行う」という発想は、まっとうな、純朴さを湛えた正論のよう映る。しかし、当の町の将来世代にも確実に負担がかかる放射能のゴミ問題は、劇毒物を一か所に集中し、持続することに伴うリスクの問題なども視野にいれて考えるべき問題ではないだろうか」(223)。映画の中でも、原発反対グループとの話し合い(缶ビールを飲みながら)の中で、「電力会社の責任で行なわれるべき」と批判されていた。私も同意見である。ただ、そういう提案でもしないと前に進めないと松下氏は言っていた。ともあれ、飯田哲也氏の助言を得て、立命館大学のラウパッハ・スミヤ ヨーク氏と共同で美浜町を訪れた後、居酒屋で飲食しているとき、ラウパッハ・スミヤ氏は「これで返事がなかったら失礼」と言ったが、その後美浜町からの返事はなく、町が提案を退けたことを松下氏は新聞報道で知ることになる。

その後、ドイツの再生エネルギー事情を見学するため有志といっしょにドイツの小さな自治体を訪問、環境団体関係者とも懇談し、ドイツ側からは「ドイツでも環境問題への関心は高くなく、経済を優先する人の方が多い」との発言。対して松下氏は、「自分は40年間ずっと負け続けてきたが、自分の唯一の誇りは諦めなかったことだ。あなた方が成し遂げたことは誇りに思うでしょう」と応じる。そしてよい訪問だったと振り返る。

氏は1998年から2期町議会議員を務めた。圧力がかかるからと作らないつもりでいた講演会は肝の太い知人が作ってくれたという。その後援会長に対して、対立候補を立てるからその会長に鞍替えしないかと関電関係者から圧力がかかる。後援会長は激怒、発電所の次長に話をすると、そんなことをだれがするのかととぼけていたが、実はその次長が圧力をかけていたことが判明。後援会に対する嫌がらせを聞いて、人びとは、そういうことをすうるのは関電に落ち度があるからではないかと考え、松下氏を支持した。松下氏も正体不明者に一度呼び出され、妻に「もし時間までに帰ってこなかったら警察に連絡するように」と言って家を出た。結局、キャンセルで会うことはなかったものの、氏は、普通の連れ合いなら止めるだろうが、うちの嫁は行ってきなさい、といって止めてくれなかったと笑いながら話す。妻は、止めても聞くような人ではないから、とこちらも笑顔で話す。それでも、選挙では苦労が絶えなかったようで、松下氏によれば、嫁は2度白目をむいて倒れたそう。それで嫁との約束で2期で辞めた。

その後、町長選挙原発経済からの脱却を目指す遠縁の若い世代が立候補した際には応援に回るが、落選。1・2号機が止まるというのにこの無関心は何なのだろうか、と候補や松下氏はいう。候補は「エネルギー環境教育体験施設」(美浜町エネルギー環境教育体験施設館)は無駄だから止めようと訴えたが、届かなかった。2015年に関電は1・2号機の廃炉を決定した。

2016年、松下氏は3号機運転再開取消訴訟の原告に加わる。同じ年、町の有力者からの働きかけで再び町議に立候補、無投票で当選。氏も妻も、投票になってほしかった、どれだけ自分たちの訴えが届いているかがわかるから、と語った。

上映される映画館は少なく期間も短いが、多くの人に見てもらいたいものだ。