本の紹介

堀有伸『荒野の精神医学――福島原発事故と日本的ナルシシズム遠見書房、2019

 

 

著者は1972年生まれの精神科医東日本大震災までは東京で勤務していたが、「東京電力福島第一原子力発電事故に衝撃を受け、2012年から福島県南相馬市で暮らす」と奥付で紹介されている。本書はハフィントンポストなどに著者が寄稿した文章を編纂したもので、精神医学の観点から原発賛成派・反対派の双方を批判的に見ている点が特徴的である。

私が気になった個所をいくつか抜き書きしてみよう。

「外部から原発事故被災地にかかろうとする支援者の一部には、この「偉大な闘争」において重要なポジションを占めることを無意識的に願っている人々がいる。そこにある微妙な傲慢さ(ナルシシズムの問題)が、現地の人々のこころには負担となる」(82)

 

「しかし、2011年以降に現実に日本社会で進んでいるプロセスは、むしろ「コロナイゼーションの進展」と思えるような出来事である。震災から4年が過ぎた時点でも、避難を継続している人は約23万人いると考えられ、震災関連死と認定された人は福島県だけで1,900人に迫ろうとしている。しかしそうであっても、この社会・心理システムは無謬であり国民からの全幅の信頼を要求することが当然であると主張するかのような姿勢は一貫し、ある面ではさらにそれが強化されている」(95)

「通常、災害に遭った人々が賠償を行う場合には、次の3つの方法のなかのどれかが選ばれる。(1)東京電力に直接請求する、(2)原子力損害賠償紛争解決センターに和解の仲介を求める、(3)裁判所に訴訟を提起する。しかし請求にかかわる労力などを考慮すると、ほとんどの場合に1が選択される。/私は本職が精神科医なので、いろいろな出来事の心理的な影響を考える。今回の事故後に被災地で賠償請求を行う場合には、被災者の多くの方が、東京電力の指定する書式で請求し、その可否の判断を東京電力から伝えられることになる。この場合に、被災者は東京電力に怒りを向けながらも、全体としては事故後においても東京電力の影響力・支配力の大きさを体験してしまうのではないだろうか。社会的な葛藤解決において外部性・第三者性は、ほとんど導入されていない。2、3の方法を選択する人が増えているのは、私には望ましいことと思える」(95)

 

「私はその要因(再生エネルギーへの転換が進んでいないこと:引用者補足)の一つは、反原発運動にかかわる人々の思想的基盤の脆さと、それに由来する社会性の無さが運動への信頼を失わせ、ほとんど影響力を発揮できない状況が出現しているからだと考えている。/残念ながら、一部の反原発運動の主張は、既存の権威への陰謀論とそれへの非難・攻撃にその主張が常に収束し、建設的な議論が不可能となる印象を多くの人に与えてしまっている。/現在の社会的に活躍している人々の尊厳を著しく貶めるような主張を行う一方で、その実務を誰が代替するのかという顧慮はなく、もちろん自らがその責任を担おうとする気概も感じられず、結果として自分が実生活において全面的に依存している対象を見下し、一方的にその対象への倫理的な断罪を行っていることへの自覚が乏しい」(144)

 

中根千枝は「権威主義」や社会の上下関係を否定したわけではなく、「何よりも中根が批判したのは、日本における個人と個人のあいだでは、それぞれが基本的な人権を尊重した上でルールを設定して関係性を構築するということがきわめて稀で、「力関係」「影響・非影響関係」という形でしか関係性が安定しないことだった」(242)

 

「「反権威」のもつ権威性も、批判されねばならない。それが無責任に、さまあまな活動を行っている人を不当に攻撃していることの問題点が反省されなければ、それを封じるために、伝統的な権威が横暴に力を発揮することへの、根拠を与えることにもなる。それも、避けなければならない事態だ」(247)

 

「「中立的な立場から被害者に共感する」という一見すると道徳的な実践が、人のこころに誤った「万能感」を抱かせることがある。/その万能感が、科学などの信頼に足る他者の見解を軽視し、「加害者」とみなした対象に過剰な攻撃性を向けることに歯止めをかけなくさせる。/そして、そのような「万能感」を批判している時の私も、まさにその「万能感」にとらわれている。このような万能感(ナルシシズム)がつくり出す先進の監獄から、私たちはいかにして自由になることができるだろうか」(250)

 

「このような万能感の肥大によるナルシシズムの蔓延は、いかにして防げるのだろうか。/それは、非存在の、自らが責められ傷つくことのない場所に留まることを放棄し、多くの限界に制約され傷つくことのある当事者の責任を引き受けて、自らの立場を明確にしながらコミュニケーションを行うことだ」(253)

 

「ここで危惧されているのは、サン・チャイルドが撤去となった経緯について、「正しい反原発の主張や、現代芸術の進んだメッセージが、保守的で地元の利益にのみ固執する、原発を推進したい政府の権力と利益誘導に巻き込まれた人々によってつぶされた」という理解ばかりが横行してしまうことだ」(254‐5)

 

「しかし、大雑把な傾向として、原発を是とする立場からのメッセージは、人々の悲しみたい感情を抑圧して、「前向きな」行動に被災地の人々を固定しようとする傾向がある。/逆に反原発の立場からのメッセージは、悲しむ面を強調するのと同時に高いミッションへの参加をうながし、生身の生活する人間としてのニーズを抑圧する傾向がある。/しかし当事者は、過去の不幸な出来事に苦しんでいるのと同時に、現在の不自由と将来の生活についての不安にも苦しんでいる。矛盾することもあるが、その両者のニーズが満たされていかねばならない」(257)

 

「日本における議論が有益なものになるためには、場の空気に一体化してしまうことを警戒し、それぞれの個人が責任をもって一つひとつの課題に是々非々を判断できる力を、主体的に身につけていく努力が必要不可欠である。/そのためには、自らが純粋な被害者や、純粋に中立的な立場から被害者に同乗しているだけの存在だと考えることを断念し、自らの加害者性についても認識する精神性の強さを身につけていくことも求められている。そこから、立場の違う相手への寛容も生み出される。/今回のサン・チャイルドの件で私が主張した内容について、「無意識的ではあっても、原発の再稼働を推進し、再生エネルギーの社会における進展を妨害しその関係者を攻撃する」効果をもっているのではないか、と事後に私に指摘した人がいたが、それは正当だと考える」(261)

 

「私の理解では、ディスチミア親和型は、根底に全体との漠然とした一体感(甘えとも呼べると考えます)を抱いている点では、メランコリー親和型と一致している。しかし、社会的な役割を引き受けることについては徹底的に回避し、冷笑的な態度を維持している。つまり、社会と社会が与える役割は、意識の表層に近い所では、徹底的に脱価値化されて見下されている。/おそらく、ディスチミア親和型は、メランコリー親和型とそのパーソナリティが主力となってつくっている社会の欺瞞性に気がついている。その病理性に気がついているからこそ、そこに深くかかわることを避けている。しかし、それを回避して社会からひきこもるような方法では、精神的な糊口を保てるようではあっても、かえって実生活では周囲への依存度を高める結果になる。そうすると、日本的ナルシシズムの問題は解決されずに、逆に複雑化する」(276)

 

長くなってしまった。著者の良心的で反省的な態度は文面から十分にうかがえ、共感するところがたくさんある。ただ、短い寄稿文がもとになっているせいと、精神分析という学問の性格から、著者自身が認めているように、実証できないことを議論しているのではないかと思う点も多々ある。つまり、そう言われればそうかもしれないが、それをどうやって証明できるのかということである。そんなことをいえば、精神分析という学問の面白みをそぐことになると考える人もいるかもしれない。

ただ、ないものねだりではなく言いたいのは、著者はせっかく南相馬市に移住して住民や患者と関係を築き、もっと具体的に述べられることもたくさんあるはずだ。その点では、著者は人々の声に基づいた考察を十分には展開できていないと思う。著者は「御用学者」と一部の人から批判されたそうだが(私はそうは思わない)、そういう批判を受け止めることよりも重要なのは、著者が自分の体験をより地に足の着いた形で文章化することだと思う。