社会学者と気候変動・地球温暖化問題

ジョン・アーリ(吉原直樹ほか訳)『<未来像>の未来――未来の予測と創造の社会学』作品社、2019年、をざっと読んだ。未来像の変遷は正直あまりよく理解できなかったが、一番面白かったのは3D印刷の話。3Dプリンターが普及しいろいろなものがオーダーメイドで作れるようになると、大量生産大量消費社会から脱却し、環境にも優しい生活が送れるようになるのではないかとも思われるが、そうは問屋が卸さないらしい。アーリ自身は、「さまざまな未来」、「起こりそうな未来」、「好ましい未来」のうち、「結局のところ好ましい未来が最も起こりそうでない」(241)と述べている。

この本が気候変動問題を第8章で扱っているので、以前ある社会学者が書いた気候変動・地球温暖化問題を扱っている本を批判的に読んだことを思い出した。ある社会学者とは金子勇氏のことである。元北海道社会学会会長で、福祉社会学や都市社会学の分野では名が知れた人。立派な社会学者なのであろう。ただ、金子勇『環境問題の知識社会学――歪められた「常識」の克服』ミネルヴァ書房、2012年、はいただけなかった。以下、気になった個所を列挙する。

被爆、被曝、被ばく、ヒバクの意図的な使用によって、マスコミでの原発批判は定着した」(21)とあり、注14で「(北海道新聞)会社をあげての被爆、被曝、被ばく、ヒバクの意図的な使用例の典型である」(201)と非難されているが、この使い分けがどのようにおかしいのかが例証・論証されていない一方的論難。

 

「これら自然再生エネルギーが十分に手にはいるまで節電しようというわけだが、とても本気だとは思えない」(41)

→批判の矢がどこに向かっているのか、政府の姿勢なのか、というよりは、“現実的でない”節電提唱派であるように読める。

 

「結果的に、世界で唯一の被爆国という歴史的国民心情に、福島原発による放射能被爆放射能汚染という現状が融合した。…ただし、新幹線や深海探索さらにリニアモーターカーや宇宙開発にも絶対安全な技術はないはずだから、原発以外のこれら大型工業技術も手放すべきか。これらの賛否はおそらく拮抗するはずだから、なぜ原発のみの全否定になるのかの理由を、主張者は明示する必要がある」(53)

→何重にもひどい。まず、「世界で唯一の被爆国」という認識がまちがい。著者の認識ではなく「歴史的国民心情」という社会意識にすりかえているのかもしれないが。「放射能」は「放射線物質」が正確。後者に至っては、車やタバコの害と比べて云々の論と同じ。原発事故被害にあったらという当事者意識皆無。

 

「…「三.一一」以降の社会学の課題を「反原子力社会」(長谷川2011a:2011b)に絞るような限定的思考は国民の期待を裏切る。なぜなら「逝ってしまった二万人」は原発爆発の被災者ではなく、自然災害の被害者だからである。大震災と大津波による生態系の破壊が原因なのだから、社会学からの対応でも生態系復旧・復興への最大限の配慮を求められるであろう」(203)

→一見正当な批判のようだが、二つの点で矮小化している可能性あり。一つは、長谷川氏は単に論点を絞っているだけで、「反原子力」のみを課題としているのではないだろうという点。もう一つは、生態系の破壊>原発被害と死亡者に基づく被害の大小を判定することによって、後者を矮小化している。

 

「フランスの原発比率八〇%、カナダの水力発電比率六〇%、インドの石炭火力発電比率八〇%などはそれぞれの気候風土の条件や経済政策によるところが大きいので、世界的な多文化主義の現代では相互に認め合うしかない。発電源バランスを維持してきた日本もまた独自の方向付けが可能であり、風力発電指向が強いドイツやデンマークだけが準拠すべき国であるという理由もない。それぞれの国民性や経済政策が異なるために、多文化主義は福祉分野だけではなく環境分野でも等しく適用できる。その意味で、多文化主義は「多分化主義」なのである」(204)

→悪しき「多文化主義」への開き直り。自然エネルギーなど政策誘導による振興が大なのに、「国民性」やトイレなきマンションを放置してきた「経済政策」を正当化・追認する「現実論」。

 

「この段階での福島発人災による死者はゼロである」(205)

→どこかの電力会社社員の原発維持・推進論と同じ。

 

「一つはヒロシマナガサキ、フクシマというカタカナ表現の定着である。もう一つは、被爆、被曝、被ばく、ヒバクの意図的混用である。これらの表現への疑問はマスコミレベルでは掲載されなくなった」(207)

→注14と同じく、「意図的混用」の何が問題なのか論じないまま一方的に断罪。

 

一方、金子氏に対する批判としては、以下の一文が参考になった。

北海道新聞』2013.12.3江守正多「地球温暖化懐疑論に応える」

江守氏の一文は、11.7の金子氏の寄稿に反論している。ようやく出たか、というか、この著者は『異常気象と人類の選択』を金子氏にののしられたから反論しているので、社会科学者界隈から批判が出てこないことが異常(少なくとも江守氏の一文が出るまで、社会学者から同様の批判が提出されたとは寡聞にして知らなかった)。

「温暖化の科学を装う言説(懐疑論)にも、逆に危機を煽る言説にも、その背後に政治的な意図がある可能性に注意が必要だ。米国では特にそのような政治性が顕著だと言われている。マラー教授のプロジェクトには、懐疑論を支持する機関からも資金が提供されていたが、その結論は懐疑論を否定した。このように、科学論争の背後にある政治的な対立を無意味にするような試みが今後もなされる必要があるだろう。なお。この話は拙著でも紹介しているが、金子氏の目には留まらなかったようだ」。妥当な批判である。

不勉強な私は、その後社会学者からどのような議論が気候変動・地球温暖化問題に関して提出されているのか知らない。ただ、ここでいっておきたいのは、江守氏が批判するように、この問題を言説(懐疑論)の問題として議論するのは問題の矮小化であるということだ。言説分析は社会学者の得意とするところではあるが、言説上の権力闘争としてのみ問題を扱うと、本当に危機的な状況を迎えているかもしれない現状から目を逸らし、上で述べたように原発を支持するかのような主張になりかねない。この問題に関しては、言説分析ではなく、(環境)社会学の重要な蓄積である公害問題から学ぶことが多いと思われる。公害防止のための予防原則と実際の被害補償である。もし金子氏のような議論に対する批判がすでに社会学者からなされているのであれば、このエントリーはお詫びの上修正するか削除する。