本の紹介

目取真俊『ヤンバルの深き森と海より』影書房、2020年

一言で言うなら、深い怒りに全編覆われた書物、ということになろうか。私にとって目取真氏とは、鋭い刃をヤマトゥンチューに突き付ける論客であり、その印象は本書を読んだ後でもまったく変わらないどころか、むしろ強化されたといってもよい。

ヤマトゥンチューで、ヤマトゥンチューに根強い不信感を持つという目取真氏の主張を私が要約するのもおこがましいので、ここでは印象に残ったいくつかのエピソードを紹介するにとどめる。一つ目は、ヤマトから沖縄に移住してきた男性A氏の話で、彼は自然破壊に注意を払わない地元住民を批判し、孤軍奮闘しているつもりになっていたが、それでも現住居の環境には満足し、移住を成功だと思っていた。しかし、「目の前の海と砂浜が、かつて埋め立て計画があったのを住民が猛反対して守ってきたものであり、自分の住んでいる場所が、村の聖地であるウタキの一部を切り崩した場所であることをヤマトゥンチューA氏は知らなかった。/琉球自治を目指す彼のたたかいは、まだまだ続く」(55頁)。最後の一文はもちろん皮肉である。ああ、勘違いもはなはだしいとしか言いようがあるまい。

二つ目は、「集団自決」をめぐる、いわゆる大江・岩波訴訟である。大江健三郎岩波書店を訴えた赤松・梅澤両氏は、もともと裁判に関心はなく、原告側の弁護士に乗せられて訴訟を起こしたのだという(57頁)。これまた弁護士の知識と関心を悪用した、「腐れヤマトゥンチュー」とでもいうべき輩である。

三つ目は、いわゆる基地「移設」(本当は新建設なのだが、矮小化のためこの言葉を使う政治家がいかに多いことか)問題である。「「沖縄にいらない基地は本土にもいらない」あるいは「本土の沖縄化反対」ということをヤマトゥの平和運動家が口にする。そういう言葉を見聞きすると、不快感が込み上げてならない」(180頁)。この気持ちはよくわかる(というのはまたしてもおこがましいが)。なぜなら、70%以上の米軍基地を沖縄に押しつけておいて、たかだか一つの基地を「本土」に引き取ったところで、それを「沖縄化」というには程遠いからだ(もちろん基地を作られた住民は迷惑だが)。

もっとも、目取真氏は「たかが抗議行動で命など賭けていられるか」とも言う(306頁)。このくだりは、連日のように辺野古の建設現場に足を運び、カヌーを操って文字通り体を張ってまで反対行動に参加する彼自身の身を「命懸け」と表現する人たちに対する違和感(反感ではない)として表現されている。たかだかこんなことで命をかけてはならないし、世界にはもっと過酷な闘争に従事している人々もいるからだ。

他にもいろいろ書きたいことはある。辺野古の「現場にはまだ収骨されない遺骨(注:沖縄戦時のもの、引用者補足)が残っている可能性がある」(327頁)。それなのに工事を強行する政府は、死者を追悼するどころか、死者を鞭打つ非道な権力であり、それを支えているのが「本土」の人間である。そのことに対するいささか忸怩たる思いも私の中にはある。また、辺野古で活動中に突然拘束され米軍基地に長時間留め置かれた際には、「県選出の国会議員や弁護士が、外務省沖縄事務所、名護署、海上保安庁、沖縄防衛局などに問い合わせても、分からない、ここには身柄が来ていない、などの返事で、私が基地内でどういう状況にあるか確認できなかったという」(338頁)。まさしく「これは異常であり、恐ろしいことではないか」(同)。付け加える言葉はない。人権の「じ」の字もこうした連中の頭の中にはないのだ。

再びヤマトゥの話に戻ると、2016年に米軍元海兵隊員によって殺害された20歳の女性の事件の報道後、埼玉での集会で彼が講演した後での質疑応答では、「出てきたのは自分の活動や思いを延々と語るもので、事件についての質問すらなかった」という(357頁)。これまた私にとっては「あるある話」で、よく集会の主題に関係のない、個人的エピソードを長々と披露する人をみかけてきた。それにしても、だれのための集会なのか、参加者は考えなかったのだろうか?

これ以外にも、翁長知事の逝去を悼む文章には、感受性が衰えて喜怒哀楽に乏しくなっている私でさえ、不覚にも涙してしまった(少しだけだが)。その他、目取真氏のエネルギーを受け止める覚悟と勇気のある人は、直に本書を手に取っていただきたい。それだけの価値は十分にある本である。

 

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