本の紹介

岡真理『ガザに地下鉄が走る日』みすず書房、2018年

著者はアラブ文学とパレスチナ問題の専門家で、私はまったくの門外漢ながら、著者の『記憶/物語』や『彼女の「正しい」名前とは何か』を読み、著者の繊細で文学者らしい感性に感心した記憶がある。岡氏の著作を手に取るのは、私にとっては久しぶりのことであり、門外漢ゆえどこまで理解できるのかおぼつかないと読み始める前には思ったものの、それは余計な心配であった。読むうちに引き込まれ、何度かうなずきたくなる場面や言葉に遭遇しては、ページを繰る手を止めて考えさせられた。

以下、印象に残った個所を記す。「植民地主義というやつはね、人間から脳みそを引っこ抜いてしまうんですよ」(36頁、在日高齢者無年金訴訟原告の言葉)、これはパレスチナ難民と在日コリアンの置かれた状況の共通性を示す言葉として引用されている。また、パレスチナ人映画監督を京都のウトロ(在日コリアンの集住地で、住民たちは「不法占拠」とされた)に案内したところ、「日本にも<難民キャンプ>があるとは知りませんでした」と彼は語ったという(198頁)。

イスラエルレイシズムアパルトヘイトと断じ、これを公然と批判するマンデラデズモンド・ツツ大司教も、シオニストから「反ユダヤ主義者」と誹謗されている」(92頁)。シオニストたちが反差別の闘志たちを差別主義者と断ずるとは、何たる倒錯か。「イスラエルの女性国会議員アイェレト・シャケド(一九七六-、二〇一五年より法務大臣)が自身のフェイスブックに、パレスチナ人も殲滅の対象である、なぜなら彼女たちはその体内で蝮の子(すなわちテロリスト)を育てるからだ、という文章を掲載して世界的な非難を浴びた」(118頁)。産めよ増やせよ、が国家に奉仕する国民を多産するよう女性を激励する言葉だとすれば、その裏返しで、「敵」の「産めよ増やせよ」を体現する(とシャケドが見なす)女性は殲滅の対象である。女性が「男並み」にナショナリズムに取り込まれるとこうなるという醜悪さ。

スペィシオサイド(spacio-cide)とは、パレスチナ難民二世の社会学者、サリ・ハナフィが「空間の扼殺」を言い表すために用いた概念で、それは「単に空間を物理的に破壊することを意味するのではない。「空間」とは人間が人間らしく生きることを可能にする諸条件のメタファーである。入植地建設や分離壁によって生活の糧である土地が日常的に強奪され、農業を営むにも慢性的な水不足に置かれ、夥しい数の検問所や道路封鎖によって移動の自由もない」状態をいう(221‐2頁)。これは「ガザ攻撃は、世界市場にイスラエル製の兵器の性能を宣伝するためのデモンストレーションの役目を果たしている」(247頁)という現状にも通じる。

本書で私にとってもっとも衝撃的だったのは、エリ・ヴィーゼルパレスチナ人の集団殺戮を行なうイスラエルを擁護し、英米の主要紙に6万ドルの意見広告を掲載した件である。彼は「今日、私たちが耐え忍んでいるのは、ユダヤ人対アラブ人の戦闘でも、イスラエルパレスチナの戦闘でもない。それは、生を讃える者たちと、死を称揚する者たちのあいだの戦い、文明と野蛮のあいだの戦いである」と主張した。これに対して、ナチスによるジェノサイドの生還者や子孫たちは彼を批判する声明を発表、「「二度と繰り返さない」というのは、誰の上にも二度と繰り返さないということを意味するのだ!」という言葉で声明を締めくくっている(252‐3頁)。エリ・ヴィーゼルともあろう人が、植民地主義者の古典的「文明/野蛮」の二分法に陥ってしまうとは、彼ほどの人であっても常に自己を顧みることがいかに難しいものであるかを示している。

本書の中で、相手の心情をたしかめ(られ)ないまま、著者がやや過剰というか勝手な解釈をしているのではないかと思われる記述もなきにしもあらずだが(必ずしも著者の解釈がまちがっているとはいえないものの、正しいという確証もない、という意味)、それは小さな瑕疵というものだろう。そのような記述も含め、本書は著者の感性に読者がどこまでついていけるか、試されるような書物だと思う。