本の紹介

山根実紀『オモニが歌う竹田の子守唄――在日朝鮮人女性の学びとポスト植民地問題』インパクト出版会、2017年

読後の感想は、あまりに倫理的すぎる、これに尽きる。本書は若くして逝去した著者の遺稿集で、多面的な活動を展開した著者のすべてを網羅するものではなく、主として夜間学校民間学校(オモニ学校)における教師と生徒の権力関係を中心とした考察を収めたものである。

最初私は、なぜ著者は若くして世を去らなければならなかったのかという点が気になり、それに関する記述を本書内で探してみたのだが、くわしいことはふれられていない。繊細な問題を含むため、あえて詮索しない方がよいのだろう。ただ、著者自身の言葉を借りれば、文字通り「身を削って」(202頁:これは他のサバイバーを著者が表現している言葉であるが、著者にも当てはまるし、何より、この個所に行き当たる前に途中で、私自身が著者のことをこう表現したくなった)書かれた文章の束である。

著者の問題意識は鮮明で一貫している。それは、識字教育を受ける在日朝鮮人自身の「主体性」であり、それ以上に教師である日本人の問題の引き受け方である。著者自身が識字教室で教師の経験があり、そこから出会った女性たちを対象に研究者としての道を踏み出すことになるのだが、そこで著者が気付いたのは、自分を含め自らの権力性に無自覚な教師たち(著者はこのような言葉を使っていないが、自分の役割や肯定的な自己イメージに酔っている、とでもいえばいいのか)であり、本書のきつい言葉を借りれば、「夜間中学では生徒に「民族的自覚」を促そうという試みに目が向き、オモニ学校では「オモニ」という他者の存在による自己の肥大化が「感謝」する関係性を変革することができなかった」(249頁)。「自己の肥大化」とは言い得て妙である。著者は、自分はいいことをした、それを他者に承認されたい、という欲望から行動していたのに過ぎないのではないか、という疑問を抱く。この自分自身に刃物を突き付けるような問いがくりかえされ、読んでいて痛々しい思いに駆られる。そんなに自分を追い詰めなくてもよいのではないか。もっとも、私がこう思うのも、おそらく「亀の甲より年の劫」に過ぎず、若さゆえの問題の突き詰め方というものが鮮明に表れている。

著者の繊細さは、いくら言葉を重ねても表現しきれず(それは著者自身の悩みでもあったはずだ)、私のもどかしさを書き連ねるよりは、本書の記述に即してたどってみたい。一例として、日本人教師が通名で通っている生徒に対して、本名を名乗るよう働きかける運動があり、在日朝鮮人の「主体性」を形成するものとして取り組まれた時期があった。ところが、著者は「本人が「本名」を把握していない」(172頁)事例と出会い、そのような運動がそもそも不可能な人はどうするのか、と考えざるをえない。「教師たちの予め設定した生徒像を押し付けかねないのである」(同)。

また、識字教育に対する鋭い指摘は、フレイレの『被抑圧者の教育学』批判にも表れている。J.E.スタッキーの議論を参照しながら、著者は「フレイレの議論には、あたかも識字を獲得しなければ「意識化」できず「解放」されないと思わせるような側面があることを(スタッキーは:引用者補足)指摘している」という(209頁)。つまり、文字の読み書きがあたかも解放の必要かつ不可欠条件であるかのように語られ、それが多数派の序列に組み込まれることの差別性を無視するのは一面的ではないかというのだ。この指摘は、少数派の「主体性」を称揚するあまりに、多数派の権力構造に無自覚な研究者たちの死角を突いている。

また、公立夜間学校における識字教育とオモニ学校を比較した論考(修士論文)では、「オモニ学校では、「オモニ」からの糾弾という行為は、具体的にはみられない。日常的に衝突することは個々人の人間ではあっただろうが、夜間中学のような緊迫した空気というのは、ボランティアたる教師と「オモニ」との関係ではほとんどなかったようである。おそらく、ボランティアで集まったものたちに教えてもらうという空間では、日本人教師たちも自覚していたように、感謝の言葉しか出てきにくかったという事情があったと思われる。むしろ、先に引用したような、在日青年からの「告発」という形で、日本人教師の立ち位置を常に意識させてるとともに、教師側の在日青年と日本人青年との対話の場になっていた。オモニ学校における人間関係が、単に日本人教師と在日朝鮮人生徒という二項対立的な関係にとどまらず教師間にある在日青年と日本人青年という三者間の幾重もの関係が、オモニ学校の実践を生み出してきた点で特徴的である」という(245‐6頁)。つまり、単に日本人教師とオモニの関係を見れば二項対立に陥りがちな関係も、在日青年という第三項を加えることによって、二項対立を脱構築し、より積極的な意義を見出すことが可能であるというのだ。ただし、留保しておかねばならないのは、このことはオモニ学校の方が可能性に満ちているとは単純にはいえないことである。私見では、教わる側から厳しい要求を突き付けられることが多いと報告されている公立夜間学校の方が、むしろ日本人側の「主体性」を問うという意味では、可能性があったのではないかとも思われるからである。

著者が他に変革の可能性を見出しているのは、日本人教師だったある女性が、教え子のクリスチャンのオモニから、先生がクリスチャンになるように祈ると言われて、その後実際に洗礼を受ける事例である。この日本人教師N氏は、オモニのことをこう表現する。「ものすごく大きな等身大の自分を映し出す鏡って、わたしはよく表現するんだけど、自分より完全に大きな存在じゃないと映し出せないじゃないですか。その完全に大きな存在だったんですよ、オモニというのは」(282頁)。このエピソードは、私にとっては腑に落ちる話で、私自身、このようなマイノリティ女性に出会って、この人は私よりはるかに人間的に優れている、と関心させられたことがある。多数派と少数派の違いを超えて、素直に感動させられる瞬間というものが確かに存在するのだ。

とはいえ、そのような楽観的なトーンは、本書のごく一部にすぎない。教員の側から見てもっともきつい「告発」は、駒込武氏が担当した授業に出席した際のレポートで(194‐203頁)、暴力シーンが含まれる映像を駒込氏が予告なしに授業という場を用いて権力作用の下で見せたことについて、配慮が足りなかったと批判している。私が駒込氏ならこの一文を本書に収録しなかったと思うが、著者らしさが端的に著されている文章である。

 

本書について、アマゾンでレビューが一つだけあった。なるほどと思うところがあり、そのまま張り付ける。

彼女のひたむきと純粋さに星一つ加えた。それがなければ、目を背けたくなるような残酷な相貌が種々の論考から浮かんで来て星一つだ。なんて可哀想に、そう、思った。彼女が日本に向けている批判のいくばくかが、共感の対象にもはあてはまらないのか?この様な目配りが出来なかったのは、畢竟、彼女の責任になろうが、彼女の教導者に責任はないのだろうか?彼女の論考は、ほぼ、この教導者の思惑に沿って展開されているからだ。そこに疑いの目を向けられなかったのが、彼女の悲劇だった。もっとも、それは、部外者の眼に過ぎないだろう。彼女自身は、微塵も疑いも逡巡も感じていなかったろうから。

 

この評者の言いたいことはわかる。ただ、著者を「教導者」のエピゴーネンと決めつけてしまってよいのかどうかについては、私には異論がある。たしかに、若くして亡くなったため、本来より深く広く展開されるはずだった論考が中断されてしまった感は否めない(本書に収められた京都大学修士論文字数制限が惜しまれる)。それでも、この問題意識やその突き詰め方は、著者独自のものであろう。仮にそれを表現する言葉が自分のものとして熟していないとしてもである。著者をよく知りもしない人物が、匿名で(この評者もブログも公開されてはいるが)、しかも印象論で当人を断罪してしまうのは、傲慢というものだろう。この評者はもっと生産的な読み方ができなかったのだろうか。本書から学ぶべきことは、著者の「教導者」への追従ぶり(駒込氏の寄稿文中の言葉を借りれば「ステレオタイプ」)(297頁)ではなく、著者が問題に向き合った姿勢そのものであろう。何より、前述の駒込氏を批判したレポートが本書に収録されたことによって、著者が「教導者」にただ従うだけの「教え子」というより、「教導者」を乗り越えようとしていた様子がうかがえる。私なら収録しないだろうと書いた文章を、駒込氏があえて本書に採用したのは、著者のこのような意思を証拠として示したかったからだろうと推測する(私は匿名の書評氏よりも、駒込氏の方が信頼できる書き手として尊重する)。その意味で、本書は、単に独りよがりではない著者の問題意識がまっすぐに追究された本として、居住まいを正して読みたい書物である。まだまだ言い足りないことは残るが、ここでは著者の達成を言祝いで終わることにする。(この項書きかけ)