本の紹介

柴田優呼『プロデュースされた<被爆者>たち――表象空間におけるヒロシマナガサキ岩波書店、2021年

 

柴田氏の前著『”ヒロシマナガサキ神話”を解体する』(作品社、2015年)を楽しみながら読んだ読者としては、今回も期待を持って同書を手に取り、また期待が裏切られることはなかった。何よりも痛快なのは、マルグリット・デュラスが脚本を書いた映画『ヒロシマ・モナムール』(邦題『二十四時間の情事』)が遠慮会釈なく批判されていることである。かねてから私は、広島を見た/見なかったという意味ありげで内容的には空虚なセリフに惑わされ、一部の批評家たちがもっともらしくこの映画を高く評価してきたことに違和感を覚えてきたので、自分の違和感にようやく言葉が与えられた感がしてすっきりした。印象的な個所を一つ引用しておくと、デュラスは以下のような一文を書いていたそうである。

「観客が、これは日本人男性とフランス人女性の話であるということを頭から振り払えないなら、この映画の深遠な含意は失われる」。さらにデュラスはこうまでいっていたという。「この日仏合作映画は、決して日仏合同映画ではなく、反日仏合作映画とみなされるべきだ。それこそが勝利である」(163頁)。これこそ自分の作品の「深遠な含意」が読み取れない観客はバカであるとして、あらかじめ批判に蓋をする予防的言説にほかならず、「夜郎自大」というべきであろう。言葉は自分にはね返ってくるという点ではおそろしい。また、ここでは書かないが、デュラスが植民地主義にまみれた経歴を隠蔽し通した経緯など、参考になる点が多々ある。一読を勧める。(この項書きかけ)