本の紹介

吉田隆之『芸術祭と地域づくり――“祭り”の受容から自発・協働による固有資源化へ』水曜社、2019

各地の事例を主にソーシャル・キャピタルの形成という視点から分析していて、最近はやりの芸術祭と地域づくりに関心のある読者ならもっと興味深く読めるだろう。残念ながら、各芸術祭の知識不足もあり、正直私はあいちトリエンナーレ以外は頭に入らず。ただ、8章の「表現の不自由展」についての分析は興味深く読めた。騒動が8月で出版が10月だから、急遽執筆出版されたことがわかる。この章を読んで思ったのは、中止を決定した津田氏に対して私もどちらかというと批判的な見方をしていたが、対応に追われた職員の負担を考えると、彼の判断もやむを得なかったのかもしれないと、もう少し好意的な評価に変わった。著者が所属する日本文化政策学会が「テロ未遂」としか声明で言えなかったのに対し、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の声明は明快に「テロ」と断じていたと、自己批判も含まれている(巻末に資料として両声明文が掲載されている)。それにしても、菅官房長官や河村名古屋市長の言動はやはり噴飯ものだろう。菅の例によって木で鼻を括るような「答弁」と、河村の悪い意味でのポピュリスト的な政治家の致命的な側面が露になった。彼の南京大虐殺についての見解と合わせて、名古屋市民は「記憶する義務」(セジン・トプシュ(斎藤かぐみ訳)『核エネルギー大国フランス――「政治」の視座から』エディション・エフ、2019:267)と「落選させる義務」があるだろう。それに比べれば、ジェンダー的に問題のある表現をあえて使えば、大村知事の方が「男をあげた」感は否めない。彼はまともな保守政治家だったということだろう(大村氏がまともに見えるのは、安倍首相をはじめ他の政治家がひどすぎて、政治家を判断する基準が私の中で低くなったせいでもあろう)。

 

追記(2020.4.5)

岡本有佳・アライ=ヒロユキ編『あいちトリエンナーレ「展示中止事件」――表現の不自由と日本』岩波書店、2019年、を読んでいると、上記の私の大村氏・津田氏評はやや修正せざるをえなくなる。特に、編者の一人である岡本氏は、河村のみならず、むしろ大村氏や津田氏に鋭い批判を向け、不自由展委員会を排除した意思決定や検証委員会の人選や委員の視点のバイアス(「パヨクに偏らない」など)、条件付き再開のやりとりなどをめぐって詳細に経緯を説明している。氏曰く、あいちトリエンナーレ側は、「キュレーション」などと言いながら、実際に行なっていることは「検閲」であり(出品作品の内容にクレームをつけてきた)、「セキュリティ」が問題で中止を決定したとしているにもかかわらず、その後対応は可能と述べ(何のための中止だったのか?)、何より電凸で脅迫した人たちやその内容の検証がまったくないという。事実は批判されているとおりなのであろう。ただ、評者の意図は、まさしくこの差別する側とそれを扇動した政治家たちにこそ最大の責任があり、批判の刃が向けられるべきであるということで、大村氏や津田氏の問題点を免罪するつもりはない。くわしくは同書を参照されたい。

 

追記2(2020.4.12)

その後同書を読了。すべての論考に言及することはできないが、本書に収録されているほぼすべての論者に同意する。たとえば、中野晃一氏の「ナショナリズムを資源とする政治」は、トリエンナーレにおける「表現の不自由展」の中止と「嫌韓」は密接に関連しているとし、「安倍政権は後先を考えていない。未来永劫安倍政権を続けるのか、後は野となれ山となれという感覚なのか、自民党の党利党略ですらない。ショート・タームの政治が極限に来ているという点で、自民党の長期政権の中でも特異な状態だと言えるでしょう」、「一定のクオリティや信頼をもって世論を牽引していたメディアが、政権に首根っこを掴まれているような状態です。このように、安倍首相自身が言っていることはそれほど変わらないけれど、党内でも当該でもブレーキが効かない状態になっているのです」と指摘している(184—5頁)。つまり、いうなれば、現在の「嫌韓・断韓国」は底が抜けた差別意識の発露を体現する言葉に他ならない。

深沢潔氏のコラム「ある日のバスのなかで」は、私の経験に照らしても「あるある、これこれ」というエピソードを紹介している。『Will』を手にした70歳前後とおぼしき男性が、バスの車内でいちいちおせっかいな声掛けを行ない、相手の迷惑そうな反応をよそに、独善的に席の指示をしたり、説教をしたりする(196—7頁)。数年前、私も電車で移動する社内で、似たような体験をした。男性数人のグループが、大声で「韓国はけしからん」云々といった発言をまき散らし、聞いていた私は一日中不愉快な気分だった。

北原みのり氏「日本社会が排除し続けてきた少女」は、トリエンナーレで攻撃の対象となった《平和の少女像》を取り上げ、この少女像とソウル日本大使館前に設置された「慰安婦」に対する日本人歴史修正主義者の反応に共通点を見て取っている。問題をややこしくしているのは、朴裕河『帝国の慰安婦』(朝日新聞社)が、「慰安婦」と兵士たちが対応な存在であったという無知をさらけ出した書物であったのに、それを上野千鶴子氏が「表現の自由」に問題をすり替えて擁護するという展開を招いたことである(204—5頁)。北原氏ならずとも眩暈がしてきそうな状態である。北原氏は「ここで、底を止めよう」という一文で論考を締めくくっている。「表現の不自由展」を中止に追い込んだのは、このようなやりきれない政治家やその支持者たち、自分に都合の悪い歴史に目をつぶり、それどころかなかったことにするか、加害者のくせに被害者感情に基づいて被害者を攻撃するという、歪んだ日本社会の病理である。