本の紹介

バリー・M・コーエンほか編著(安克昌訳者代表、中井久夫序文)『多重人格者の心の内側の世界ーー154人の当事者の手記』作品社、2003年(Barry M. Cohen etal(eds.), 1991, Multiple Personality Disorder from the Inside Out)

 

『心の傷を癒すということ』の著者である安克昌氏の最後の仕事として知り、最近少しずつ読んでいた本。素人である評者にはとても全体を論ずることはできない(決して難解な本ではない)ので、印象に残るエピソードを一つだけ紹介したい。それは多重人格者である母親を持った娘の言葉である。彼女の母はまっとうな人格の持ち主と若いころの娘の目には映っていたが、老年期に入り、おかしな面が見られるようになった。周囲の人はそれを加齢による病気や症状だと見なしがちだったが、実は彼女が3歳のころ父方の叔父から受けた性的虐待が原因であると判明、偶然出会った聡明な女性の援助により84歳にして治療を開始、87歳になってようやく統合されようとしているという(278—281頁)。こんなに高齢になってなお治療が可能(しかも治癒?という言葉が適切なのかどうかわからないが)とは、人間の能力の不思議さを思う。

この本を途中まで読んでいて、私は正直、自分は多重人格者ではないので、当事者としては語られている言葉が実感できず、どこか遠い問題として集中して読めないでいた。ところが、ある瞬間に、自分でも思い当たることがあるのに気が付いた。それは、私の中にも「意地悪な自分」と「親切な自分」の少なくとも二つの側面(人格とまではいえないかもしれないが)があるということに。私自身は多重人格者ではないという事実には変わりなく、その意味で当事者の言葉を「理解」できるというのはおこがましい。ただ、私の中の「意地悪な自分」は、本当は目の前の相手に好意を抱いているにもかかわらず、何かの拍子にふと意地悪な言葉を思い浮かべてしまうような振る舞い方をする。ある時、私は自分の意識のギャップに気が付いて戸惑ったが、これは「意地悪な自分」がさせていることで気にする必要はないと自分に言い聞かせ、その場を収めた。結局この判断は正しく、その後も何度か同じような場面に遭遇してもたじろがないで済んだ。これが意味するのは、「人格」とまでは言えないとして、私の中にも「複数の自分」が存在し、意識しない部分で時々自分の判断や物の見方が左右されるということだ。本当は傷ついているのに、怒っているのに、あたかも何でもないかのようにやりすごす(やりすごせる)、という具合である。私は「統合」されていると感じるので、この本に登場する多重人格者たちのように「非統合」に悩まされるということはない。それでも、自分の中にある複数性や他者性(独り言をいう自分は自分という他者と対話しているようなものである)に気が付いたことで、この多重人格者たちの心境に少しは近付けるのではないかと思っただけである。

評者は、以前安氏とともにこの本を訳した宮地尚子氏の著書に惹かれたことがある。宮地氏が安氏の存在から彼女の主要なアイデアの一部を導き出したであろうことは想像に難くない(私は宮地氏の他の著作を知らないので、勝手な決めつけかもしれない。思い込みだったらお詫びする)。ともあれ、ある本からある本に導かれ、自分がなぜその本を読むことになったか、当事者でもないのにどんな意味があるのか最初はわからず、後で気付かされるという体験をした点で、ある意味稀、私にとっては稀有な本と言えるかもしれない。くわしくは同書を参照していただきたい。

 

追記(2020.4.25)

本書が翻訳された当時は「多重人格性障害(MPD)」という診断名が使われていたが、その後は「解離性同一性障害(DID)」という病名に変更されている。本書では前者がそのまま用いられている。

他に印象に残ったことをあげると、同書ではMPD/DID当事者の交流機関誌として『FLOCK通信』が紹介されている。FLOCKとは「群れ」を意味し、「当事者の心の在り方を指」す言葉として採用されたそうだ(288)。私の解釈では、当事者たちの「群れ」でもあり心の中の「複数性」をさす言葉でもある。

 また、安氏は治療にあたっていた自分のことを「他人の毒を、自分の身体を通して濾過するようなことをしていた。それは人間のするべきことではなかった」(340)と述べたことがあるそうである。これは彼の師匠に当たる中井久夫氏が著書の中で、中井氏が診療後時々施術してもらっていたマッサージ師の言葉とも瓜二つである。マッサージ師曰く、自分たちは被治療者を解毒しているようなもので、そのせいで長生きできないとのこと。その言葉通り、そのマッサージ師は若くして亡くなってしまったとか。まさに他人のために身を削る職業である。

 

本の紹介

杉田俊介・櫻井信栄編・河村湊編集協力『対抗言論』1、法政大学出版局、2019

2週間ほどかけて少しずつ読んだ本。これも参考になる論文が多く、とてもすべてを紹介している時間がない。以下、目次といくつか目に留まった文章について言及する。

《特集①》日本のマジョリティはいかにしてヘイトに向き合えるのか

 《特集②》歴史認識とヘイト────排外主義なき日本は可能か

  • 歪んだ眼鏡を取り換えろ──「嫌韓」の歴史的起源を考える 【加藤直樹
  • 戦後史の中の「押しつけ憲法論」──そこに見られる民主主義の危うさ 【賀茂道子】
  • 朝鮮人から見える沖縄の加害とその克服の歴史 【呉世宗】

朝鮮人も使いよう」(179)という沖縄人による朝鮮人蔑視は、沖縄/ヤマトの二者関係だけでは論じられない重層性を浮かび上がらせる。

  •  われわれの憎悪とは──「一四〇字の世界」によるカタストロフィと沈黙のパンデミック 【石原真衣】

 

  • アイヌのこと、人間のこと、ほんの少しだけ 【川口好美】

 

オバマ効果」(210)について肯定的に評価しているが、これはかつて秋葉氏が提唱したおめでたい「オバマジョリティ」とどこが違うのか? オバマ発言以前に社会意識の変化があるのではないか(直野章子氏が秋葉氏を批判していた一文も記憶にあるのだが、すぐには思い出せない)

 「だったらあんたが書いてくれ」と言わないために 【康潤伊】

 《特集③》移民・難民/女性/LGBT────共にあることの可能性

  • 不寛容の泥沼から解放されるために──雨宮処凜氏インタビュー 【聞き手】杉田俊介
  • フェミニズムと「ヘイト男性」を結ぶ──「生きづらさを生き延びるための思想」に向けて 【貴戸理恵

貴戸氏にとって上野千鶴子氏はメンターなのであろうが、『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』所収の北原氏の論考(吉田隆之『芸術祭と地域づくり――“祭り”の受容から自発・協働による固有資源化へ』水曜社、2019、に関する2020.4.12の追記参照)を見ると、朴氏を擁護する上野氏はフェミニストとしては危うい側面があり、ねじれた関係。

  • 黄色いベスト運動──あるいは二一世紀における多数派の民衆と政治 【大中一彌
  •  収容所なき社会と移民・難民の主体性 【高橋若木

 

  • やわらかな「棘」と、「正しさ」の震え 【温又柔】

「あるある」話の典型。マジョリティの差別意識にあふれた会話(しかも親が子をたしなめない)を咎めたマイノリティが、なぜ気まずい思いを抱かなければならないのか。親が彼女の言葉を引き取って誤ったとしても、その思いは解消されるわけではない。それでもなお自分の「正しさ」を疑い、言葉を模索する作家。

  •  LGBTと日本のマジョリティ──遠藤まめた氏インタビュー 【聞き手】杉田俊介

 

  • NOT ALONE CAFE TOKYOの実践から──ヘイトでなく安全な場を 【生島嗣+植田祐介+潟見陽+ルーアン
  • 反ヘイトを考えるためのブックリスト42 【本誌編集委員&スタッフ+ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会】

秋葉氏の論考については批判しなければならない点があると感じるが、それ以外の論文やエッセイなどについては読みごたえがあった。お買い得。2号以降にも期待したい。

本の紹介

長谷川紀子『ノルウェーのサーメ学校に見る先住民族の文化伝承――ハットフェルダル・サーメ学校のユニークな教育』新評論、2019年

この本もざっと目を通しただけである。それでも、著者が長期間に渡ってフィールドワークを行ない、丹念に準備した書物であることは伝わってくる。名古屋大学発達科学研究科に提出された博士論文がもとになっており、学術的ではあるが、決して衒学的ではなく、門外漢にも読みやすい。

著者は20年ほど英語教師として働き、その後名古屋大学の大学院に社会人入学したと奥付には書かれている。学部時代は、卒論調査でアイヌコタンを訪れ、無知なままに昔話を聞きたいとねだったそうである。著者はおそらく苦い思いとともに当時を回想し、「知らないということは罪なことだ。今さらながら、好奇心だけで動いてしまった若くて無知な頃の自分を思い出すと心が痛み、それを受け入れてくれたアイヌの人達には「申し訳なさ」でいっぱいになる」と書いている(275頁)。評者にも、このように苦い思いとともに振り返らざるをえない経験があるので、著者の反省は他人事とは思えない。

本書の特長は、ノルウェーのサーメにおける学校の役割を、特に北サーメと南サーメの差異に注意を払いながら慎重に論じている点である。ノルウェーにおけるサーメ政策は、日本のアイヌ政策と比べると格段に行き届いているのではないかとも思われるが、著者は楽観視を排し、厳しい現状を分析している。おそらくそのとおりなのであろう。著者が冒頭で紹介している「サーメの血」という映画は結構評判になった(評者は未見である)が、映画で描かれた当時の社会よりはマジョリティ側の対応は改善されたとはいえ、マイノリティが自分たちに必要な文化を伝承し、迷いなく生きるということは現代においても容易ではない。そのことと、また自分の立ち位置を自覚している著者には、今後はマジョリティ社会の分析にも手を広げていただくことを期待したい(著者の他の業績をまったく検索していないので、もう手掛けられているのかもしれない)。また、ノルウェーサーミのみならず、フィンランドスウェーデンではどうなっているのだろうかと、比較研究も可能だろう。そのような好奇心を掻き立てられる書物である。

本の紹介

安克昌『増補改訂版 心の傷を癒すということ』作品社、2011年

河村直哉『精神科医安克昌さんが遺したもの――大震災、心の傷、家族との最後の日々」作品社、2020年

 

今年になってNHK安克昌氏を主人公とした安氏の著書と同名のテレビドラマ「心の傷を癒すということ」が放映された。阪神淡路大震災25周年という節目の年でもあり、あらためて安氏の功績に光が当たられているのはうれしいことである。評者は、同書を以前に読んでいたのではあるが、当時は著者のすごさを十分に理解できなかったというのが正直なところである。安氏が被災者に徹底的に寄り添う姿勢を保ち、被災者にも届く平易な言葉で語ったせいで、正直「とんがった」つまりキャッチーな言葉として引っかかるものがなかったのである。だが、それはきわめて浅薄な読み方であったことに今回再読して気が付いた。衒学的な、それでいて苦難にある人たちを対象化し突き放す視点ではなく、安氏は自分も当事者も(安氏自身も当事者なのだが)が腑に落ちる言葉と紡ぎ続けた。最初に新聞連載として執筆を依頼、それを傍らで見守り、安氏逝去後も家族に取材を続け、一度は出版を断念しながらようやく時期が巡ってきたと判断し、出版にこぎつけたのが河村氏の著作である。河村氏は、妻が自分を責める言葉を聞き取り、自分の取材のせいで子どもたちがいじめにあっていたことを知り、はたして自分の文章が出版に値するのか自問、子どもたちが小さかったせいもあり、出版を断念すべきと判断した。それがその後、子どもたちも成長して家族の同意が得られたこと、また東日本大震災後安氏の経験と功績を世に伝えるべきだと思うようになった。

実は評者は、安氏の論文「臨床の語り――阪神大震災は人々の心をどう変えたか」栗原彬ほかほか編『越境する知2 語り:つむぎだす』東京大学出版会、2000年、所収、を以前に読んでいた。この書籍が刊行されたのは、安氏が亡くなる2000年の8月なので、刊行は同氏の死の直前ということになる。遺稿に近いだろう。私がこの本を読んだのはいつなのか、記憶がはっきりしないものの、おそらく刊行からそれほど日を置かずに購入したのではないかと思う。だからずっと以前に彼の文章は目にしていたはずである。それなのに、私にはさっぱり読んだ記憶がなかった。上述のように、おそらく安氏の文章がソーメンのようにつるつると流れてしまい、引っかからなかったのだ。本当は極めて重要な問題提起をしていたのにもかかわらず、である。当時の私は同書に収録された他の論者の方に関心があったのだろう。そのせいもあって、安氏の一文は読んだとしても記憶の底に埋もれたままになっていたのである。

今回読み直してみると、河村氏が著作で引用している「露出した「内臓」的現実」といった、ヴィヴィッドな表現が目についた。「家の「死体」」や「生活を想像させる品々」のことを「内臓」にたとえるのは、いかにも医師らしい表現であり観察眼である(269頁)。また、97年に神戸で起きた小学生連続殺傷事件のこのにもふれ、この事件が震災とは直接関係がないと断りながら、震災の「死」と「破壊」のイメージと川根合わせた人は多いだろうと推測している(270頁)。

河村氏の本で言及されていた、安氏最後の仕事である翻訳書、バリー・M・コーエン(安克昌訳者代表、中井久夫序文)『多重人格者の心の内側――154人の当事者の手記』作品社、2003年、を私はこれから読もうと思う。序文は寄せた中井氏は、安氏が感銘を受け精神科医を志すきっかけとなった恩師であり、監訳社の宮地尚子氏は同じく精神科医として後に「環状島モデル」を提唱する(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学みすず書房、2007年)。私はこの「環状島モデル」に強く惹かれ、自分の研究に当てはめられないかと模索していたことがある。宮地氏の著作を高く評価しながら、その仲間であった安氏の著作の価値を見誤っていたとは、不徳の致すところというほかない。

(この項書きかけ)

本の紹介

中村隆之『野蛮の言説――差別と排除の精神史』春陽堂、2020年

大雑把に読んだだけだが、西洋大航海時代から始まって、現代の相模原障害者殺傷事件へと至る過程を、人種主義や優生思想を経由しながら「野蛮の言説」の系譜で読み解くという、思想史の手法に則った啓蒙書。15回と1学期の講義を想定して組み立てられており、西洋起源の他者支配の言説の系譜が見通しよくコンパクトに紹介され、参考文献も豊富である(巻末でもさらに補強されている)。

詳細については同書を参照してほしい。その上で、恣意的に印象に残った記述をあげると、たとえばダーウィニスムと社会進化論は明快に切り離せるものではなく、後者はある種前者の論理的必然として導き出されたものであること、またコンラッドの『闇の奥』を批判的に読むアーレントが、ミイラ取りがミイラになると言わんばかりの「野蛮言説」の枠組みをなぞってしまっているのではないか、など、微妙で、どちらが差別でどちらが差別反対へと向かうのか、分岐点の見極めを慎重にたどらなければならないと主張している。ヘイトスピーチが単に民族・人種差別を引き起こしているだけではなく、障害者差別と地続きであることを示して締めくくっているのは示唆的である。

あえて言えば、本書は骨格を描くことが主題であり、詳細については詰めるべき点が残されているように見受けられるし、より繊細で実証的な論証が必要と思われる個所が含まれている。それでも、コンゴにおけるベルギーの大虐殺(20世紀初頭で、1000万人以上)が多くの人に知られていない(私もこの本を読むまでは無知だった)事実。その現状を啓発するために本書が世に送り出された意義は小さくないだろう。簡便な議論と読書案内として便利かつ有益である。

社会学者と気候変動・地球温暖化問題

ジョン・アーリ(吉原直樹ほか訳)『<未来像>の未来――未来の予測と創造の社会学』作品社、2019年、をざっと読んだ。未来像の変遷は正直あまりよく理解できなかったが、一番面白かったのは3D印刷の話。3Dプリンターが普及しいろいろなものがオーダーメイドで作れるようになると、大量生産大量消費社会から脱却し、環境にも優しい生活が送れるようになるのではないかとも思われるが、そうは問屋が卸さないらしい。アーリ自身は、「さまざまな未来」、「起こりそうな未来」、「好ましい未来」のうち、「結局のところ好ましい未来が最も起こりそうでない」(241)と述べている。

この本が気候変動問題を第8章で扱っているので、以前ある社会学者が書いた気候変動・地球温暖化問題を扱っている本を批判的に読んだことを思い出した。ある社会学者とは金子勇氏のことである。元北海道社会学会会長で、福祉社会学や都市社会学の分野では名が知れた人。立派な社会学者なのであろう。ただ、金子勇『環境問題の知識社会学――歪められた「常識」の克服』ミネルヴァ書房、2012年、はいただけなかった。以下、気になった個所を列挙する。

被爆、被曝、被ばく、ヒバクの意図的な使用によって、マスコミでの原発批判は定着した」(21)とあり、注14で「(北海道新聞)会社をあげての被爆、被曝、被ばく、ヒバクの意図的な使用例の典型である」(201)と非難されているが、この使い分けがどのようにおかしいのかが例証・論証されていない一方的論難。

 

「これら自然再生エネルギーが十分に手にはいるまで節電しようというわけだが、とても本気だとは思えない」(41)

→批判の矢がどこに向かっているのか、政府の姿勢なのか、というよりは、“現実的でない”節電提唱派であるように読める。

 

「結果的に、世界で唯一の被爆国という歴史的国民心情に、福島原発による放射能被爆放射能汚染という現状が融合した。…ただし、新幹線や深海探索さらにリニアモーターカーや宇宙開発にも絶対安全な技術はないはずだから、原発以外のこれら大型工業技術も手放すべきか。これらの賛否はおそらく拮抗するはずだから、なぜ原発のみの全否定になるのかの理由を、主張者は明示する必要がある」(53)

→何重にもひどい。まず、「世界で唯一の被爆国」という認識がまちがい。著者の認識ではなく「歴史的国民心情」という社会意識にすりかえているのかもしれないが。「放射能」は「放射線物質」が正確。後者に至っては、車やタバコの害と比べて云々の論と同じ。原発事故被害にあったらという当事者意識皆無。

 

「…「三.一一」以降の社会学の課題を「反原子力社会」(長谷川2011a:2011b)に絞るような限定的思考は国民の期待を裏切る。なぜなら「逝ってしまった二万人」は原発爆発の被災者ではなく、自然災害の被害者だからである。大震災と大津波による生態系の破壊が原因なのだから、社会学からの対応でも生態系復旧・復興への最大限の配慮を求められるであろう」(203)

→一見正当な批判のようだが、二つの点で矮小化している可能性あり。一つは、長谷川氏は単に論点を絞っているだけで、「反原子力」のみを課題としているのではないだろうという点。もう一つは、生態系の破壊>原発被害と死亡者に基づく被害の大小を判定することによって、後者を矮小化している。

 

「フランスの原発比率八〇%、カナダの水力発電比率六〇%、インドの石炭火力発電比率八〇%などはそれぞれの気候風土の条件や経済政策によるところが大きいので、世界的な多文化主義の現代では相互に認め合うしかない。発電源バランスを維持してきた日本もまた独自の方向付けが可能であり、風力発電指向が強いドイツやデンマークだけが準拠すべき国であるという理由もない。それぞれの国民性や経済政策が異なるために、多文化主義は福祉分野だけではなく環境分野でも等しく適用できる。その意味で、多文化主義は「多分化主義」なのである」(204)

→悪しき「多文化主義」への開き直り。自然エネルギーなど政策誘導による振興が大なのに、「国民性」やトイレなきマンションを放置してきた「経済政策」を正当化・追認する「現実論」。

 

「この段階での福島発人災による死者はゼロである」(205)

→どこかの電力会社社員の原発維持・推進論と同じ。

 

「一つはヒロシマナガサキ、フクシマというカタカナ表現の定着である。もう一つは、被爆、被曝、被ばく、ヒバクの意図的混用である。これらの表現への疑問はマスコミレベルでは掲載されなくなった」(207)

→注14と同じく、「意図的混用」の何が問題なのか論じないまま一方的に断罪。

 

一方、金子氏に対する批判としては、以下の一文が参考になった。

北海道新聞』2013.12.3江守正多「地球温暖化懐疑論に応える」

江守氏の一文は、11.7の金子氏の寄稿に反論している。ようやく出たか、というか、この著者は『異常気象と人類の選択』を金子氏にののしられたから反論しているので、社会科学者界隈から批判が出てこないことが異常(少なくとも江守氏の一文が出るまで、社会学者から同様の批判が提出されたとは寡聞にして知らなかった)。

「温暖化の科学を装う言説(懐疑論)にも、逆に危機を煽る言説にも、その背後に政治的な意図がある可能性に注意が必要だ。米国では特にそのような政治性が顕著だと言われている。マラー教授のプロジェクトには、懐疑論を支持する機関からも資金が提供されていたが、その結論は懐疑論を否定した。このように、科学論争の背後にある政治的な対立を無意味にするような試みが今後もなされる必要があるだろう。なお。この話は拙著でも紹介しているが、金子氏の目には留まらなかったようだ」。妥当な批判である。

不勉強な私は、その後社会学者からどのような議論が気候変動・地球温暖化問題に関して提出されているのか知らない。ただ、ここでいっておきたいのは、江守氏が批判するように、この問題を言説(懐疑論)の問題として議論するのは問題の矮小化であるということだ。言説分析は社会学者の得意とするところではあるが、言説上の権力闘争としてのみ問題を扱うと、本当に危機的な状況を迎えているかもしれない現状から目を逸らし、上で述べたように原発を支持するかのような主張になりかねない。この問題に関しては、言説分析ではなく、(環境)社会学の重要な蓄積である公害問題から学ぶことが多いと思われる。公害防止のための予防原則と実際の被害補償である。もし金子氏のような議論に対する批判がすでに社会学者からなされているのであれば、このエントリーはお詫びの上修正するか削除する。

 

 

 

本の紹介

吉田隆之『芸術祭と地域づくり――“祭り”の受容から自発・協働による固有資源化へ』水曜社、2019

各地の事例を主にソーシャル・キャピタルの形成という視点から分析していて、最近はやりの芸術祭と地域づくりに関心のある読者ならもっと興味深く読めるだろう。残念ながら、各芸術祭の知識不足もあり、正直私はあいちトリエンナーレ以外は頭に入らず。ただ、8章の「表現の不自由展」についての分析は興味深く読めた。騒動が8月で出版が10月だから、急遽執筆出版されたことがわかる。この章を読んで思ったのは、中止を決定した津田氏に対して私もどちらかというと批判的な見方をしていたが、対応に追われた職員の負担を考えると、彼の判断もやむを得なかったのかもしれないと、もう少し好意的な評価に変わった。著者が所属する日本文化政策学会が「テロ未遂」としか声明で言えなかったのに対し、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の声明は明快に「テロ」と断じていたと、自己批判も含まれている(巻末に資料として両声明文が掲載されている)。それにしても、菅官房長官や河村名古屋市長の言動はやはり噴飯ものだろう。菅の例によって木で鼻を括るような「答弁」と、河村の悪い意味でのポピュリスト的な政治家の致命的な側面が露になった。彼の南京大虐殺についての見解と合わせて、名古屋市民は「記憶する義務」(セジン・トプシュ(斎藤かぐみ訳)『核エネルギー大国フランス――「政治」の視座から』エディション・エフ、2019:267)と「落選させる義務」があるだろう。それに比べれば、ジェンダー的に問題のある表現をあえて使えば、大村知事の方が「男をあげた」感は否めない。彼はまともな保守政治家だったということだろう(大村氏がまともに見えるのは、安倍首相をはじめ他の政治家がひどすぎて、政治家を判断する基準が私の中で低くなったせいでもあろう)。

 

追記(2020.4.5)

岡本有佳・アライ=ヒロユキ編『あいちトリエンナーレ「展示中止事件」――表現の不自由と日本』岩波書店、2019年、を読んでいると、上記の私の大村氏・津田氏評はやや修正せざるをえなくなる。特に、編者の一人である岡本氏は、河村のみならず、むしろ大村氏や津田氏に鋭い批判を向け、不自由展委員会を排除した意思決定や検証委員会の人選や委員の視点のバイアス(「パヨクに偏らない」など)、条件付き再開のやりとりなどをめぐって詳細に経緯を説明している。氏曰く、あいちトリエンナーレ側は、「キュレーション」などと言いながら、実際に行なっていることは「検閲」であり(出品作品の内容にクレームをつけてきた)、「セキュリティ」が問題で中止を決定したとしているにもかかわらず、その後対応は可能と述べ(何のための中止だったのか?)、何より電凸で脅迫した人たちやその内容の検証がまったくないという。事実は批判されているとおりなのであろう。ただ、評者の意図は、まさしくこの差別する側とそれを扇動した政治家たちにこそ最大の責任があり、批判の刃が向けられるべきであるということで、大村氏や津田氏の問題点を免罪するつもりはない。くわしくは同書を参照されたい。

 

追記2(2020.4.12)

その後同書を読了。すべての論考に言及することはできないが、本書に収録されているほぼすべての論者に同意する。たとえば、中野晃一氏の「ナショナリズムを資源とする政治」は、トリエンナーレにおける「表現の不自由展」の中止と「嫌韓」は密接に関連しているとし、「安倍政権は後先を考えていない。未来永劫安倍政権を続けるのか、後は野となれ山となれという感覚なのか、自民党の党利党略ですらない。ショート・タームの政治が極限に来ているという点で、自民党の長期政権の中でも特異な状態だと言えるでしょう」、「一定のクオリティや信頼をもって世論を牽引していたメディアが、政権に首根っこを掴まれているような状態です。このように、安倍首相自身が言っていることはそれほど変わらないけれど、党内でも当該でもブレーキが効かない状態になっているのです」と指摘している(184—5頁)。つまり、いうなれば、現在の「嫌韓・断韓国」は底が抜けた差別意識の発露を体現する言葉に他ならない。

深沢潔氏のコラム「ある日のバスのなかで」は、私の経験に照らしても「あるある、これこれ」というエピソードを紹介している。『Will』を手にした70歳前後とおぼしき男性が、バスの車内でいちいちおせっかいな声掛けを行ない、相手の迷惑そうな反応をよそに、独善的に席の指示をしたり、説教をしたりする(196—7頁)。数年前、私も電車で移動する社内で、似たような体験をした。男性数人のグループが、大声で「韓国はけしからん」云々といった発言をまき散らし、聞いていた私は一日中不愉快な気分だった。

北原みのり氏「日本社会が排除し続けてきた少女」は、トリエンナーレで攻撃の対象となった《平和の少女像》を取り上げ、この少女像とソウル日本大使館前に設置された「慰安婦」に対する日本人歴史修正主義者の反応に共通点を見て取っている。問題をややこしくしているのは、朴裕河『帝国の慰安婦』(朝日新聞社)が、「慰安婦」と兵士たちが対応な存在であったという無知をさらけ出した書物であったのに、それを上野千鶴子氏が「表現の自由」に問題をすり替えて擁護するという展開を招いたことである(204—5頁)。北原氏ならずとも眩暈がしてきそうな状態である。北原氏は「ここで、底を止めよう」という一文で論考を締めくくっている。「表現の不自由展」を中止に追い込んだのは、このようなやりきれない政治家やその支持者たち、自分に都合の悪い歴史に目をつぶり、それどころかなかったことにするか、加害者のくせに被害者感情に基づいて被害者を攻撃するという、歪んだ日本社会の病理である。