本の紹介

鈴木道彦『余白の声 文学・サルトル・在日――鈴木道彦講演集」閏月社、2018年

すでにいくつか書評も出ているようだが(朝日新聞週刊読書人、他にもあるかもしれない)、ここでは私独自の視点から評してみたい。私は在日コリアンと日本人の関係に関心を持ち、在日朝鮮人作家の作品も少しだけ読んできたつもりではあるが、専門ではなく、しかも文学というよりは社会学的関心の方が強かった。その意味では、私の紹介は専門家のそれというよりは、素人の戯言に近いかもしれない。ただ、それでもここに書くことにそれなりの意義があるとすれば、それは「素人の怖いもの知らず」的な部分にあるだろう。言い換えれば、素人ゆえにこそかえって率直に言えるものもあるということである。したがって、以下に述べることに興味も関心もない方は無視していただいてかまわない。

著者の鈴木氏は、フランス文学の泰斗で、その父もマラルメを中心としたフランス文学者として知られる。彼の父は、戦前資産家の跡取り息子の気楽さからか、金に糸目をつけずに稀覯本を含む多くの書籍を購入、戦災を恐れて家に重武装の書庫を設置、おかげで戦火を免れたそれらの書籍は、戦後獨協大学の図書館に寄贈されたことが講演で語られている。

もっとも、本書の主題は、広い意味でのフランス文学ではなく、むしろ在日朝鮮人の「問題」にいかに日本人として戦後責任(高橋哲也)を果たし、戦後日本人が忘却してしてしまった植民地主義を克服するかである。そのことがくりかえし語られ、その導きの糸、あるいは補助線としてサルトルが参照されるという構成になっている。植民地主義という主題でフランスと日本を串刺しにするという点では、著者の姿勢は終始一貫している。

著者は最初から在日朝鮮人と植民地化をめぐる問題に関心があったわけではなく、もともとはフランス留学時に、フランス植民地からの独立を目指したアルジェリア人たちの闘争に感銘を受け、それを日本に紹介する過程で、「在日」の「問題」とも遭遇した。日本でアルジェリア独立運動に通じた人士がいなかったこともあり、著者はメディアに請われるままに関連する文書を寄稿、その際に、遠いアルジェリアのことではなく、近い(実際は遠かったと鈴木氏は述べている)朝鮮半島のことを日本人として引き受け、応答責任を果たすべきであると考えた。そして、本書で述べられている小松川事件や金嬉老事件に関わっていくことになる。この時代については、上野千鶴子氏から執筆を勧められて著したという『越境の時』に詳しく述べられている。

『越境の時』の緊迫感あふれる文章に比べれば、本書は講演集という性格もあってか、同じ主題をより容易に、親しみやすい語り口で読者に伝えている。重複する内容もあるが、たいくつせず、重い主題なのにすらすら読める。というのは、鈴木氏が扱っているテーマは、私にとってすでに馴染みのものだからである。つまり、脱植民地化に責任があるのは被植民者の側ではなく、むしろ植民者の側である。この主題は、多くの日本人が目をつぶってやり過ごしてきたばかりではなく、むしろ近年になって歴史修正主義やヘイト・スピーチにより一層深刻になったと著者は考えている。そのため、自分の存命中はこの問題は解決できないだろうと思いながらも、自分なりの責任を果たすために、鈴木氏は悲壮な覚悟で講演を引き受け、執筆を続ける。

私が本書で特に着目したのは、鈴木氏の在日「問題」への向き合い方もさることながら、氏のサルトル論である。「投企」(73頁)や「アンガージュマン」(91頁)など、行動する知識人として一世を風靡したサルトルの思想的意義について的確に論じている。たとえば、サルトルが来日した当時、フランス大使館を含めすでにサルトルは時代遅れであり、代わりにヌーヴォー・ロマンなどがあるという風潮である(フランス大使館が名前をあげたビュトールロブ=グリエを鈴木氏は「いずれもお話にならないほどの小モノ」と評している(191頁))。ほかにも、一見するとロラン・バルトのテクスト理論によって時代に遅れになったかのように評価されたサルトルの方法論にこそ、文学者の人間理解の神髄(普遍性)が存在するというのである。サルトルが評伝を書いたジュネやフローベール、とりわけジュネ論を鈴木氏は小松川事件の犯人として処刑された李珍宇の驚嘆すべき読書量と読解能力と重ね合わせる(ジュネと李珍宇は二人とも獄中で思想形成を成し遂げたという点で共通する)。李珍宇の心中に入り込むなど、日本人である自分には本来おこがましいことである。しかしながら、あえてそこに踏み込むことこそが文学者としての自分の仕事である、と。

鈴木氏がくりかえし述べる、バルカン半島の歴史家たちの3点の申し合わせ「批判の刃はまず自分に向ける」、「相手の立場で考える」、「バルカン諸国の歴史家だけで自律的に行う」(140頁、176頁)は彼の座右の銘となっているようで、「とくに第一と第二の点は、異民族関係の基本だと思っています」(141頁)という。私も全面的に賛成する。自分を棚上げして他人を非難しているつもりになっている連中に、鈴木氏の爪の垢でも煎じて飲ませたい。

閏月社
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